”選手再生”の達人・野村克也が自らを再生させる3年間を追った「砂まみれの名将」 知られざる情熱の日々に思いを馳せる

2022年6月4日

「砂まみれの名将」(新潮社)は2020年に死去した野村克也氏の、ある3年間について描いたノンフィクションです。

選手時代は南海ホークスの名捕手にしてパ・リーグ初の三冠王、ホームラン王は9回のスラッガー。引退して監督になった後はヤクルトを3度の日本一に導くなど、正に「名将の中の名将」です。

その野村氏が、阪神タイガースの監督として3年連続最下位という屈辱を味わい、妻・沙知代さんの脱税事件が重なって、プロ野球界を追い出されるように去った後、社会人野球のシダックス監督となって、自らを「再生」させる過程を、当時の番記者が振り返ってまとめたものです。

知られざる知将の素顔を当時の選手やチーム関係者の証言を交えて描いていて、プロ野球ファンでなくても非常に興味深く読める1冊です。

駆け出し記者が見た「名将」の素顔

野村監督と言えば、やはりヤクルト時代の華々しい活躍ですよね。
「ID野球」を標榜し、愛弟子・古田敦也を中心とした緻密な野球を構築しながらも、広沢克己や池山隆寛(愛称「ブンブン丸」)ら豪快な打者たちが大活躍しました。

とにかく教え魔として有名で、ベンチではいつも古田を隣に座らせて、配球についてありとあらゆる知識を教え込んだと言われています。

そんな野球に関する知恵の宝庫、勝つために何をすべきかわかっている名将が、何とアマチュア野球のシダックス野球部にGM兼監督としてやってきたのです。

この本の読みどころは、高校野球でもなくプロ野球でもない、社会人野球という世界に身を置いた選手たち、そこには様々な事情がある訳ですが、彼らが野村克也という、野球を知り尽くした人物と出会って、どのように変わっていくか(彼と出会ったおかげでプロ野球界に進み大成功を収めた選手もいます)。それだけではなくて野村監督自身も本来の野球のあり方を見つめ直し、後に「あの頃が一番楽しかった」というほどの濃密な時間を過ごすという部分です。

そんな知られざる3年間を掘り起こしたのは、当時、報知新聞の駆け出し記者だった加藤弘士。
もともと報知新聞社の営業職だった加藤氏ですが、異動希望がかないアマチュア野球担当の記者となって、ちょうどその頃、シダックスの監督に就任した野村氏の取材を始めたというのです。
つまりシダックスの選手同様、加藤記者もその時初めて野村監督と巡り合い、その人物像に触れたひとりなのです。

そこで描かれる野村克也は人間味にあふれ、ある時は見事な采配を振るい、ある時は選手を叱咤し、時には自身のミスを悔い、とにかく全身全霊をかけてシダックス野球部を強くしようとしている。本当に野球が好きなんだなあと思います。

同じ頃、プロ野球界は激震に見舞われます。球界再編騒動です。
近鉄という球団が消えて楽天という新たなチームが生まれ、当時評論家としても復権しつつあった野村監督の待望論が沸き起こってきます。

筆者は、アマチュア野球を愛し懸命に指揮を執りながらも、プロ野球界への復帰を密かに望んでいる野村監督の微妙な心境を描いていきます。
そしてついに楽天の監督に就任することが決まり、3年間を過ごしたシダックス野球部に別れを告げる日。野村監督の別れのあいさつで物語はクライマックスを迎えるのです。

”空白の11カ月間”に野村の身に起きていたこと

去年ベストセラーとなった「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」(文藝春秋)は、やはり番記者が見た「名将」の姿を描いたノンフィクションでした。
ただ、こちらは取材対象となった落合監督が、とにかく本音を明かさない人で、その数少ない言葉から様々な采配や選手起用の意図を見抜くという、ある種ミステリーのような要素を持たせて読者を引っ張っていく、非常に巧みに構成された物語でした。

それに対して「砂まみれの名将」は、意外にも率直で気持ちの読みやすい野村克也という人物の姿を、当時周辺にいた人たちの回想を交えながら素直な構成で描いた、非常にオーソドックスなノンフィクションになっています。

ただひとつ、筆者はエピローグに“隠し玉”を用意していました。
野村氏が阪神の監督を辞任してシダックス監督に就任するまでの11カ月の間に起きていたこと・・・ あのまま阪神の監督を続けていたらどうなっていたのか。
ここで明かされる事実は、野村氏がシダックスの監督としてあれだけの情熱を燃やした、その背景を解き明かすものでもありました。

「砂まみれの名将」というタイトルは、ひとつはもちろん、屈辱の中で阪神の監督を、プロ野球界を追われた野村氏の状況を表したものではあるでしょう。
そしてもうひとつ、吹きっさらしの市営グラウンドで、砂ぼこりで顔を真っ黒にしながら、大好きな野球に打ち込んでいた「名将」の、「人生で一番楽しかった」姿を表現したものでもあるのだと思います。

Posted by ブラックバード